田中康夫の新ニッポン論

17/1月号 田中康夫の新ニッポン論㊸「丙申から丁酉へ」◆月刊VERDAD-ベルダ

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干支(えと)は60年を周期とする十二支(じゅうにし)と十干(じっかん)の組み合わせ。2016年=平成28年の昨年は、戦後2回目の丙申(ひのえさる)でした。丙(ひのえ)とは「竈(かまど)の火が燃え盛るさま」。申は「伸びる」が語源。“大変革の年”と呼ばれる所以(ゆえん)です。
戦後最初の丙申は僕の生年でもある1956年=昭和31年。国際連合への加盟が総会で認められ、名実共に国際社会に復帰した年です。「もはや『戦後』ではない」と『経済白書=年次経済報告』は記し、石原慎太郎氏が『太陽の季節』を上梓(じょうし)。他方で大宅壮一氏は『一億総白痴化』の警句を発します。
日本住宅公団が入居者募集を開始。佐久間ダムが竣工(しゅんこう)。東海道本線が全線直流電化。原子力政策の最高決定機関として原子力委員会を設置。水俣病第1号患者が公式確認。何れの事象も、「高度経済成長」へと踏み出していく“日本の光と影”を隠喩(いんゆ)しています。
高齢化社会とは65歳以上人口が7%に達した段階と国連が定義し、三島由紀夫氏に激賞された、姥捨て山を扱った『楢山節考(ならやまぶしこう)』を深沢七郎氏が発表したのも同年。
因みに日本の高齢化率は当時、5・3%。7・1%に達した「高齢化元年」は、「人類の進歩と調和」を掲げて日本で最初の万国博覧会が大阪の千里が丘で開催された1970年=昭和45年。昨年の高齢化率は27・3%。世界屈指です。
2017年=平成29年の今年は丁酉(ひのととり)。丁(ひのと)は「火の弟」とも記し、酉(とり)は五行では「金」。火が金属を溶かす“相克の年”。相手を討ち滅ぼしていく“革命の年”とも呼ばれる前回の丁酉は1957年=昭和32年。
戦前から『東洋経済新報』で終始一貫、膨張主義を諫め、富国裕民(ふこくゆうみん)の「小日本主義」を説き、奇しくも今上天皇誕生日でもある前年の12月23日に第55代内閣総理大臣に就任し、国民皆保険制度を閣議決定するも脳梗塞に倒れた石橋湛山氏に代わって2月25日に成立したのが岸信介内閣。
ロンドンを抜いて世界一の人口に東京都が躍り出て、トヨタ自動車はアメリカへの輸出を開始。東海村の日本原子力研究所で「原子の火」が灯ります。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が、大阪から進出した百貨店そごうのキャンペーンソングとして大ヒット。大阪では中内㓛(なかうち・いさお)氏が「主婦の店ダイエー」を京阪電車沿線の千林(せんばやし)商店街に開店させます。
聖徳太子の肖像で新五千円札が発行された60年前は、神武景気から岩戸景気へと移行する年でもありました。大変革の年・丙申から革命の年・丁酉へと、60年後の今年は如何なる1年となるのでありましょう?
冒頭で触れた「経済白書」の惹句(じゃっく)は、焦土(しょうど)と化した日本が復興を終えて「高度成長」を目指すバラ色宣言と捉える向きが多いでしょう。が、「日本経済の成長と近代化」の副題を冠し、第2代小錦八十吉(こにしき・やそきち)の長男だった執筆者の経済企画庁調査課長・後藤譽之助(ごとう・よのすけ)氏は、異なる文脈で用いたのです。即ち、「消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、今や経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされ、もはや『戦後ではない』」と。
「戦後10年我々が主として生産量の回復に努めていた間に、先進国の復興の目標は生産性の向上にあった」「数量景気の成果に酔うことなく」「新しい国造りに出発することが当面喫緊(きっきん)の必要事」。「近代化-トランスフォーメーション-とは、自らを改造する過程である。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようとする試みは、結局軍事的膨張に繋がった」。「今後の成長は近代化によって支えられる」。
労働生産性はOECD加盟34カ国で21位。国民1人当たり国内総生産も18位の日本の我々が、再び拳拳服膺(けんけんふくよう)すべき至言(しげん)でしょう。

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★参考資料

「サンデー毎日」連載「ささやかだけど、たしかなこと。」第8回 2016年、戦後2度目の丙申「富国裕民」ジャパンを目指せ! ◆サンデー毎日

2016年1月号の如水会々報に「戦後2度目の丙申(ひのえさる)」と題して寄稿しました。◆如水会々報

 

 

 

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