とても不思議で、不可解な写真です。日本国全権代表の園田直そのだ・すなお)外務大臣と中華人民共和国全権代表の黄華(こう・か ホワン・ホワ)外交部長が、署名調印した批准書を取り交わし、握手をしています。その両脇では福田赳夫(ふくだ・たけお)内閣総理大臣と鄧小平(とう・しょうへい ドン・シャオピン)国務院第一副総理が拍手をしています。
1978年=昭和53年10月23日に永田町の首相官邸で執り行われた日中平和友好条約批准書交換式の光景。翌日の朝刊に掲載された写真を、大学生の僕は眺め、そして訝りました。4名の座席前に置かれていた名札の表記の違いに。左から順に鄧小平副総理、黄華外交部長、園田外務大臣、福田総理大臣と記されています。
どうして先方は姓名で、当方は名字だけなのだろう。先方が「賓客」だから? ならば猶の事、迎え入れた側もフルネームを名乗るべきでは。改めて今回、共同通信社から当該写真を購入すると、僕の記憶は間違っていませんでした。
星霜を経て、産業革新投資機構=JICの田中正明社長の辞任会見。当初の官民ファンドから「官ファンド」へと180度転換する内容の文書が提示されるに至ったのは、経済産業省の官房長、事務次官、大臣、或いは官邸、何れの段階での意思、判断でしょうかと質問を受けた彼は答えました。「霞ヶ関の方々は主語を用いて仰らないから、私には判りかねます」と。
英語(アイ)も仏語(ジュ)も独語(イッヒ)も中国語(ウ)も、会話には主語を伴います。日本語は異なります。複数に向けて語る会議や講演に於いても。英語では最後を「do I」で締めると、それは念押し。「と私は思います」の婉曲話法とは対極です。
山国での知事時代、フルネーム=バイネームで話そう、記そう、と励行を呼び掛けました。例えば自己紹介の際には「道路建設課長を務めております私は小林一郎です」。肩書を自慢する為に働くのではなく、付与された権限に基づく職責を果たす責任者(イン・チャージ)としての気概を抱いて貰うべく。県民ホットラインに寄せられた提言・質問への返答は手紙でもメールでも、部長、課長、担当者の3名の氏名を横書きで1行に肩書無しで記しました。具体的に返答しているのか否か杳として判らぬ、形骸化した決裁文書を改め、組織全体で指摘を共有し、改善すべく。
先般、G20の個別会談や日韓議連総会を報じる新聞・TVの電子版を眺めて、40年前と同じ違和感を抱きました。
「トランプ米大統領と中国の習近平国家主席が会談」(産経新聞)。「トランプ大統領と習近平(シー・ジンピン)国家主席が首脳会談」(日本経済新聞)。
「トランプ米大統領はブエノスアイレスでドイツのメルケル首相と会談し、貿易や安全保障問題について協議」(時事通信)。
「安倍首相は祝辞を寄せず、文在寅(ムン・ジェイン)大統領と面会する日韓議連の額賀会長に信書を託さない異例の対応」(フジテレビ)。
嫌中・嫌韓が売り物のメディアですら、中国・朝鮮半島の指導者のみはフルネーム。更には字数・行数の増加を確実に齎すカタカナ表記の振り仮名も冠しています。紙幅が限られる紙媒体に於いても個々の記事の最初に登場する際には必ずドナルド・トランプ、テリーザ・メイ、ウラジミール・プーチンと記す「欧米」との明白な違い。
近い将来、G20の場でイギリス、オーストラリアの首相が共にスミス。カナダ、ニュージーランドの首相が共にブラウンだった場合、島国ニッポンの記者クラブは如何に対応するのでしょう? 他方、野球球団に同姓が存在した場合に鈴木一郎を鈴木(一)、鈴木義雄を鈴木(義)と表記する日本。紙幅に制限なき電子版でも相変わらずです。フルネーム・バイネームが根付かぬ日本。責任の所在が曖昧な「空気」で動く社会を反映しています。