Invitation(インビテーション) 2008年12月号 「ミシュラン東京」の現在と未来 Vol.03

30年来、ミシュランガイドに親しんできた田中康夫氏。なぜ氏は、「ギド・ミシュラン・ルージュ」を評価し、東京版に疑問を呈するのか。
”ミシュラン”を独自の視点から捉えた、刺激的文化論。

写真=増田 慶
今回の対談者 田中康夫さん

田中 学生の頃から30年近く、「ミシュラン」のレッドガイドとグリーンガイドに触れてきた私は、ある種の感懐を抱いて、今回の対談に臨んでいます。ところで如何ですか?日本での対談の多くは情念的で、フェアでもオープンでもなく、また、ロジカルでもない点に少々お疲れなのではと案じています。

ナレ そんなことはないですよ(苦笑)。

田中 この料理店を無視したのは不謹慎だ。掲載直後に潰れる料亭を評価していたとは呆れる。などと極めて感情的に挑戦を挑んでくる方が大半だったのではありませんか?

ナレ たしかにそういう質問はありましたね。

田中 (フランス文学の)ゴンクール賞の審査でも評価が分かれるように、レストランに関しても「絶対」な評価などというものはありません。掲載した店が潰れたなどと、声高に語るのは愚かなことです。アヌシー湖畔のマルク・ヴェッラも見事に立ち直っているではありませんか。無論、彼の失敗の背後には過大投資を許した金融機関の影響があったのでしょうが、それは日本やアメリカの銀行とて同じことです。20歳を超えた人間が自己責任で判断し、自己責任で立ち直ったというだけの話です。が、フェア・オープン・ロジカルな評価とは、料理に於いても文学に於いても極めて難しいことです。
とは言え、「ギド・ミシュラン」に対する日本でのエモーショナルな、批評どころか批判以前の罵詈雑言は尋常ではありません。恐らく日本に、「弁証法」的思考が根付いていないからでしょう。日本では○か×か、あるいは5つの答えの中から正解を選びなさいという、まさにアルゴリズム、マニュアル的な教育で大人になっているのです。フランスを始めとするヨーロッパとの大きな違いです。だから、自分の贔屓の店が載ってないと激怒する出版社の社長がいたり、あいつらが恐らく審査員だから駄目なんだなどと言い出す業界人がいるのですね。更には、懇意や雑誌やWebには写真付きで掲載を認める一方で、ミシュランへの掲載は意図的に拒んだ二枚舌な料理人が、まるで英雄のように賞賛されている現状こそ、日本の喜劇というか悲劇です。ひとたび看板を掲げて商売を営むことは、それがクリーニング屋さんであっても、ラーメン屋さんであっても、消
費者の批評の対象であり、その批評に耳を傾けねばならない。それでこそ大人のビジネスです。ですから、こうした基本認識を共有しない人々が、日本版「ミシュラン」を聖書のように崇めるかと思えば、罵詈雑言の限りを尽くすという珍現象を生んだのではないかな。

ナレ ありがとうございます。東京の食のシーンというものは素晴らしいものがありますし、食材やシェフの才能も優れたものがあると思います。古い伝統的な文化を長い世代にわたって受け継いできたという点も素晴らしい。東京で出すにあたっていろいろなメディアで取り上げていただきましたけれど、その中でたくさんの質問を受けました。ミシュランガイドはフランスやヨーロッパでは正当性を持ったガイドとして認められているけれども、日本で同じような正当性を獲得できるのだろうかというという見方もあったことは感じました。私たちはフランス料理を評価するフランスのガイドではなく、世界中のあらゆる料理を評価する国際的なガイドなのだと。その証拠にすでに22カ国で出していることを説明しなくてはなりませんでした。そして、日本料理に限らず、日本での外国料理を評価するに当たって、日本の歴史や文化、そういったものの勉強から始めたということを繰り返し説明してきました。
昨年11月にこのコレクションを発表したときに、東京というのは世界に冠たる食の都だということを、東京の人たちにも改めて認識するきっかけになればという思いもありました。そして、世界中の人が東京に注目し、スポットライトが当たったということで非常に大きな影響がありました。いろいろなメディアで取り上げられて、食のシーン、あるいは東京の街とってもいいことだったのではないかと思います。それから出版記念パーティに世界中から三つ星シェフが28人ほど集まったというのも日本の食を賞賛したいという気持ちを世界中の偉大なシェフたちちが持っていたからこそだと思います。だから、初日から4日間で12万部がほぼ完売したことは、その人たちがこれを受け入れてくれた証拠だと思いますし、最終的には27万部近く売れた。私たちの予想を大幅に上回る大成功でした。ただメディア的にも商業的にも大きな成功だったために、批判を受けてしまった。存在が大きいものは政府の機関であっても、批判を浴びるというのは仕方がないことだと思います。批評は、よいもの悪いもの両方ありましたが、それだけ大きな成功を収めて、大きな影響を及ばしたからだと思います。

田中 日本には、”話せば判る”という諺があります。でも、夫婦も恋人も、ましてやDNAを引き継ぐ親子ですら、話しても判り尽くせる筈がない。その公理を認めた上で会話も議論も評論も存在するかどうか、努力を重ねるかどうか、それが弁証法の国か、そうでないかの大きな違いです。話したら100%理解し合えるのだったら、何十億人もの人類は1種類のクローン人間であっていいはずです。料理もそうです。同じルセットで、同じ厨房で作っても、つくり手が違えば料理も変わります。

ナレ そのときのシェフの気分によってでも。

田中 ええ、もちろんです。どんな状況下でも、夫婦喧嘩の直後でも、新しい恋人と巡り会った翌日でも、少なくとも90点以上の料理を常に提供出来なくてはプロとして失格です。でも、93点か96点か、それは日々、違ってきます。だから、料理は芸術なのです。そうして、批評しきれないからこそ批評することに価値があるのです。しかし、こうしたフランス的な話をしていても読者には退屈でしょうから(苦笑)、具体的な話をしましょう。なにしろ、脱構築の哲学者のジャック・デリダどころか、嘗ての左派のフランソワ・ミッテランと今の右派のニコラ・サルコジの双方から、イデオロギーを超えて信頼されている経済学者のジャック・アタリのディスクールを理解出来ない二元論の国ですから(苦笑)。
ミシュランにはレッドガイドの他にグリーンガイドがあります。(総合化成品メーカーの)オカモトと合弁でミシュランタイヤが最初に日本へ進出した直後の1990年代前半、実業乃日本社から日本語に訳したグリーンガイドがシリーズで出た時、私は日本人のメンタリティがこの出版で大きく変わると期待を抱きました。なぜなら、各都市で訪れるべき場所を活字で説明するグリーンガイドこそはロジカルなガイドブックだからです。ですが、多くの日本人は、町にも施設にも星を付けて、見学に要する時間も一目瞭然なのは便利だけど、説明の文章が意味乾燥だと捉えました。それは大きな間違いなのです。グリーンガイドの何処の都市でも一行目にはナショナルミュージアムが載っています。けれども、ロンドンで言うなら3項目目か4項目目にはヴィクトリア・アンド・アルバートに象徴される生活芸術の美術館が載っているのです。ここには昔の靴もあれば、台所用品もあります。即ちレッドガイドに於いてもスリースターだけでなく、意欲的にビブグルマンのようなバリュー・フォー・マネーな料理店も扱うようになった意識と共通しています。料理とは日常生活そのものでもあると、ミシュランは心掛けているからです。ミシュランは全ての階層、すべての段階の人にとって、自分が訪れるのに相応しい場所はどこなのか、と行間を読み取る中で成長していく、訓練の機会を与えてくれます。しかし、残念ながらグリーンガイドは、日本では定着せず、絶版となってしまいました。
日本では、JTB呼ばれる半官半民的歴史と官僚的意識から抜け出せない旅行会社が編集・発行する、写真満載のガイドブックが代表格です。そこには、誰もが自然に関心を抱く生活芸術、アプライドアーツの美術館ではなく、旧来的「教養」と呼ばれる泰西名画が主体の美術館しか載っていません。残りの大半のスペースは一転、物見遊山な旅行客向けにホテルと料理店とブチックが写真入りで紹介されているのです。取材・執筆を担当した書き手のコラムも、囲み記事風に登場しています。が、それは、極めて情念的な内容です。例えば、私はこの町でカメラを盗まれた。けれども、見知らぬ若者が一緒に警察へと案内してくれて、商店主も慰めてくれたので印象深い、などというパースペクティヴの感じかれない話を人間味溢れるエピソードだ、などと勘違いしているのです。つまり、全体を捉えるのではなく、意味のないディテールを針小棒大に述べているのが日本のガイドブックなのです。ですから、そうした国へと進出するに当たって、前回のグリーンガイドの失敗を経て、レッドガイドの成功へと多くの戦略を練られたと思います。如何ですか?

ナレ 日本に進出する戦略というのは仕事を進める上で変わってきたというのがあります。膨大な情報を集めるには膨大な作業が必要になりますし、日本において全国版を出すことはまず不可能だと。それで、その都市版ですね。東京だけを取り上げたものを出そうと決めました。ニューヨーク版と同じコンセプトでやろうと考えたのです。1ページあたり2軒、星なしから三つ星まで。そしてビブグルマンの店まで、そういうタイプのものを載せるガイドにしようと思いました。調査の作業を始めてから、私たちの想像を超えて星がつきそうなレストランがはるかに多いことがわかってきました。150店に星がつくことがわかったときに、500店、400店のうちにそれを掲載すると、星がうもれてしまうというふうに考えました。だから、星つき150店の店だけで作るように方針を転換したのです。星がついている店しか掲載しないことで、ミシュランはエリート向けのガイドという印象を与えてしまったということはあったと思います。そういったイメージは誤りですが、選に漏れてしまったお店が多いという結果になりました。このガイドに入らなかった方から不満の声が出た。それは、自分たちの力が足りなかったからではなくて、ガイドやり方が悪いという話になってしまったのではないかと思います。

田中 では、東京版が果たして「ギド・ミシュラン」と呼び得るのか否か、というロジカルな話をしましょう。実はフランス版は3月、その内容を踏まえてパリ版は春に出版されます。奥付では12月だったりするイタリア・ドイツ・イギリス・スペインといった同じく活字のみで構成される欧州各国版も実際に店頭に並ぶのは新年です。
他方で東京版は11月にお出しになった。そういえば、同じくアメリカ人が喜びそうな、カラー写真を多用したニューヨークやサンフランシスコやラスヴェガスの各版も11月前後の発売ですね。それは何故でしょう?クリスマスや年末年始にご馳走を食べに出掛ける日米の恋人や家族、あるいは香港やシンガポール、台北、上海の富裕層が旧正月に東京やアメリカへ出掛ける際のガイドブック。それぞれ”お上りさん”的色彩の強い購買層に向けて、カラー写真多用で10月から11月にかけて出版するビジネスモデルを練り上げたのではないですか。そしてこの点こそが、365日食事こそは生活である社会に根ざした上での、百年余の歴史を経て、芸術と呼ぶべき三つ星の料理をも扱うに至った欧州版のギド・ミシュランとの違いではないでしょうか。
こうした認識に立つ私は、口角泡を飛ばして東京版を「評論」する他の多くの方々とは異なる、と密かに自負しています。私は本来の「ギド・ミシュラン・ルージュ」を高く評価しているのです。数多くの市民が参加する客観的ガイドを装いながら、匿名性に護られた自称・食通の善男善女が、自分の気にくわない料理店を陶片追放(オストラシズム)する「ザガット・サーヴェイ」という悪平等民主主義の申し子(爆笑)と比較するまでもなく、ミシュランには哲学があり、気概も気品もあります。が、だからこそ東京版は、ジョルジオ・アルマーニがアルマーニとエンポリオの2つの銘柄を展開するように、「イエローガイド」として誕生すべきだったのです。
レッドガイドというカテゴリーのミシュランは、生活に根ざした料理の中から芸術として残る料理を作るに至るまで、客観的な評価をしているところに意味があったんです。であればこそ、その料理店で取り分けお奨めのスペシャリティを記す編集部側の主観部分は、各レストラン僅か2、3行です。犬を連れていけるか、車椅子の人が入れるか、最低価格はいくらか、それらはすべてアイコンで示された情報になっています。

ナレ アイコンはまさにユニヴーサルな言語ですから。

田中 ええ、しかしミシュランのアイコンが優れているのは、日本やアメリカの人が考えるようなマニュアル化したものではい点です。つまり、犬が入れるか入れないかという日本やアメリカ的な二元論の○×ではないのです。静かなお店には小鳥のマークが付いていて、それが緑色だと極めて静謐であると。あるいは、等級や規模に応じてホテルの表示は屋根の数が増える。けれども古い建物でもモダンなファシリティになっていればMという囲み文字で示される。即ち、単なるマニュアルを超えた、そこから一人ひとりの読者が行間を読み取る訓練をさせてくれるガイドブックなのです。

ナレ おっしゃるとおりです。

田中 ミシュラン編集部が、インフォームド・コンセプトを行い、ミシュラン読者はインフォームド・チョイスを行
えるように自分を鍛錬する教科書なのですね。であるならば、楢の事、もっと上手なフランスらしい、敢えて言えば、もっと狡猾な戦略を展開すべきでした。う~む、悔しいけれど恐れ入りました、と食通知ったか振りな、"黄色いバナナ"、ライフスタイルは白色の欧米を求めるけど、皮膚という肉体は依然として黄色い日本人である私たちが舌を巻くようなフランスのエスプリを。
私のようなフランス語やイタリア語が不得意な人間にとって英語版のメインシティ・オブ・ヨーロッパは大変な福音でした。しかし、残念なことに2年前からミラノならミラノ、パリならパリの中の料理店しか掲載しなくなりましたね。以前は、パリの最後のところに150km離れたシャンパーニュ地方ランスの街中のボワイエであったり、あるいはミラノの最後のところに120km離れたウサギが跳びはねる穀倉地帯の一軒家ダル・ペスカトーレであったり、編集部がスリースターと認める存在が都市の範囲を超えて必ず掲載されていました。わざわざそこへ行くために旅行をする価値のあるお店が。ミラノやパリにビジネスやショッピングで訪れる人たちに、今回は無理でも次回はここにも足を伸ばすべきであるという、よい意味での教育=ディスプリンをしていたわけです。しかし、残念ながらあなた方は、こうした変えるべきでない哲学と気概を放棄してしまった。他方で、発展途上の読者に媚びを売るかのように、選択すべきではない妥協を行ってしまった。
アメリカの都市版、日本の都市版は別の色の、それは紫色でも黒色でも構いませんが、黄色い表紙のイエローガイドというような形でお出しにった方が「ミシュラン糾弾」特集を組んで部数増を狙う愚かな月刊誌も日本で現れず、幸せだったかも知れませんよ(苦笑)。悔しかったら、イエロー・モンキーやホワイト・ヤンキーよ、発展途上から早く脱却して、ヨーロッパに、フランスに近付いてごらんと挑発された方が、皆、黙って頭を垂れて、益々、ミシュランの権威が高まったかも知れませんよ。

ナレ 本当に哲学的な考察やアドヴァイスありがとうございました。グリーンガイドもレッドガイドもよくご存知で、エキスパートでいらっしゃることがよくわかりました。
すべて内容は違っても、伝統的なスタイルにのっとって同じやり方でやっています。実際こういう形に至るまで108年かかりました。たしかに日本で出しているものは高級ガストロノミーを扱ったもので、それが受け入れられた。東京が美食の街であることを世界に示した。これから毎年出して変革して進歩させていきますし、私たちの独立性は変えるつもりはありません。同じやり方に基づいてシェフたちの才能を発掘する、そういう方針は今後も変わりませんし、すべてのガイドに共通したものです。それからメイン・シティ・オブ・ヨーロッパに関して以前は載せるお店の基準がばらばらであって、たとえば100km先は載せているのに40km先のお店は載せていないということがあって、私たちも議論をしてきたわけです。ロジカルにするために首都の中だけのものに限ったのです。フランス版は毎年、必ず3月の一週目に出ます。それはなぜかというと単純な理由で、そのセレクションを最終的に決定するのが2月の末だからです。そしてほかのガイドは3月から11月にかけて順次出していく伝統で昔から変わっていません。私たちは変えるために変えているのではなく、伝統は伝統として守って、変えるべきところを変えている。
都市版というのはその都市を通して食の喜びを発見するというコンセプトはちょっと違いますけど、ディレクションはまったく同じです。このガイドは108年出しているわけですが、コンセプトはまったく同じでいると思っています。教育的な役割を果たしているはずです。私たちの仕事には共通性があります。田中さんは政治家として、私たちはガイドを出すことでたくさんの人に受け入れられる。たくさんの人に喜んでもらう必要があるという点では共通点がある。

田中 その通りですね。いずれにしても、これだけ多くの人たちがミシュランを巡って会話をした。それは、ミシュランの勝利ではあるでしょう。

ナレ 私たちもポジティヴな批判、ネガティヴな批判、たくさんいただきましたけど、それは政治家として小説家としての田中さんも同じことでしょう。ネガティヴな批判もあることで自分たちは前進していく。それが力になっていくのだと思います。建設的に考えることが大事だと思いますし、この対話も建設的なものだったと思います。今日の対話の中に真実があったかどうかはわかりませんが、ある真実はあったかと思います。

田中 ええ、その真実は日本全国のガソリンスタンドやオートショップにミシュランの幟(のぼり)がはためくようになったのですから、その意味では、皆さんは初期投資の成果を十二分に収めたということです。

ナレ そのとおりです。読者の方たちによろこんでいただく、レストランに行きたいという気持ちになっていただくのが私の仕事ですので、いろいろな店を発掘していきたいですね。東京が食の都として世界中から注目を浴びる、みんなが東京にやって来たいと思うようにれば私たちの成功だったと思います。

田中 なるほど。本日は意義深い対談の機会を有り難う。今度は私もフランス語を、ナレさんも日本語を勉強して、お互い、相手の言語で対談してみましょうか。

Jean-Luc Naret
ジャン=リュック・ナレ 1961年生まれ。エコール・オテリエール・ド・パリを1982年に卒業後、ベニス、パリ、バハマなど20年間に渡り高級ホテル業界で経験を積む。2003年ミシュラン入社。2004年に107年の歴史を持つミシュラン・ガイドの6代目総責任者に就任した。

Yasuo Tanaka
田中康夫 1956年生まれ。一橋大学在学中に書いた「なんとなく、クリスタル」がベストセラーに。2000年長野県知事に就任し、数々の改革で話題を呼ぶ。2005年「新党日本」を立ち上げ、2007年より参議院員。
著書は「神戸震災日記」(新潮社)他多数。

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