田中康夫の新ニッポン論 ⑩「戦後レジーム」

「秋季大会が以前、宮城県で行われたのは昭和二七年、第七回大会であります。この年は我が国にとって平和条約が発効した重要な年であり、また、戦後初めて我が国の選手団がオリンピックに参加した年でもありました。沖縄の選手団が国民体育大会に参加するようになったのも、この年からのことであります」。

奇しくもアメリカ同時多発テロ「9・11」発生直後の二〇〇一年十月に宮城県で開催された国民体育大会開会式に知事として参加した僕は、天皇陛下のおことばに感銘を受けたのを思い出します。

「サンフランシスコ講和条約」の正式名称は「Treaty of Peace with Japan =日本国との平和条約」。敗戦国の日本が、国際連合で常任理事国を務める現在の米英仏ロ中の連合国側との戦争状態に終止符を打って国際社会に復帰する「戦後レジーム」の確立です。

昨年末に天皇陛下は「八十年の道のりを振り返って」「最も印象に残っているのは先の戦争の事です」と宮内記者会代表質問の冒頭で述べ、「戦後レジーム」の土台である現行憲法に関し、日本を主語として以下の言及をされます。

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って今日の日本を築きました」。「当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならない事と思います」。

而して「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」とも語られました。

その皇后陛下は十月の誕生日に際し、「私の少し前を歩いておられた方々を失い、改めてその御生涯と、生き抜かれた時代を思っています」と文書を発表され、その中で「暮らしの手帖を創刊された大橋鎮子さん,日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させたベアテ・ゴードンさん」等の名前を挙げられます。「あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた『五日市憲法草案』のことをしきりに思い出しておりました」との件もありました。

ジョン・ケリー国務長官、チャック・ヘーゲル国防長官が千鳥ヶ淵戦没者墓苑で献花し、ジョージ・W・ブッシュ政権下で国務副長官だったリチャード・アーミテージ氏が「首相の靖国参拝は、これまで積み上げてきたものを全て壊す衝撃がある」と警告した事実を前々回の拙稿で紹介しました。中韓両国と同じ感情的土俵に乗らずに「日本よ、大人になりなさい」とのアメリカの諫言として。

が、一九七八年以後は昭和天皇も今上天皇も参拝していない靖国神社に安倍晋三首相は参拝。「失望=disappointed」と強い言葉で「戦後レジーム」の同盟国たるアメリカが声明を発表すると、駐日米国大使館のフェイスブックに“罵詈雑言”的コメントが殺到し、“炎上”する事態に陥りました。

三万八千人もの避難者が犠牲となった両国の旧陸軍被服廠跡・横網町公園の復興記念館には、神奈川で甚大な津波被害も発生した関東大震災直後、青島を拠点としていた米国海軍が救援活動を展開し、中華民国北京政府も医療支援団と食糧を軍艦で横浜に運び、この「トモダチ作戦」で一時的に両国への親和的空気が醸成された九十年前の史実が展示されています。が、歴史は一瀉千里に暗転。

「私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており、その翌年の十二月八日から中国の他に新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした」と天皇陛下は述懐されています。
「戦後レジーム」の“深意”を虚心坦懐に拳々服膺すべきなのです。さもなくば歴史の悲劇は繰り返す、と僕は憂慮します。

© 2024 田中康夫公式サイト